同性愛を捨ててキリストと共に歩む
匿名男性
私は、去年の8月に洗礼を受けましたが、それにいたるまで非常に長い年月がかかってしまいました。というのも、男性に対する恋愛的感情そして性的欲求を抱いてしまうからでした。
しかし、真実の神様の愛を知り、そのライフスタイルを捨て、主イエス・キリストとともに歩んで行く決心をしました。
私は、ゲイ「男性同性愛者」であったため故に、長い間聖書の教えを受け入れることができませんでした。思春期に入る前よりこの問題に気づいていましたが、それを自分の中で正当化することで精一杯でした。心の支えであるはずの神様の教えが、自分の一番弱いところを痛いほど指摘され、神様に見放された思いさえしました。
中学に入ると、なぜか無性にアメリカに留学したい思いに駆られ、高校で一年交換留学しました。日本の高校を卒業後、もう一度渡米し4年間大学に通い、卒業後も一年間アメリカで働きました。その中で多くのクリスチャンと出会いました。神様と結ばれ素晴らしい人とも出会いましたが、私にとってこの6年間は、つまずきをさらに悪化する結果になってしまいました。アメリカでゲイは、クリスチャンから目の敵にされている風潮があったからでした。
片田舎ではありましたが、全米、そして世界百か国以上から3万人の学生を受け入れる自由なキャンパスで、4年間ゲイライフを謳歌しました。そしてそれを憎むべき罪だと、キャンパスで叫ぶ一部のクリスチャンを馬鹿にすることで、自分は進歩的だという優越感に酔いしれていました。しかし私の中には、どうしてもぬぐい去れない空しさが依然としてありました。その空しさから目をそらすために、私の心は東洋思想、そしてニューエイジムーブメントに引かれて行きました。
そんな大学生活を送っていた私にも、神様は自分がなぜ同性愛という問題を抱えているか示してくれました。卒業前にとったクラスの一つに、イギリス文学のクラスがありました。イギリスを中心にヨーロッパに伝わるアーサー王伝説を読み比べ、分析するクラスでした。王、騎士、兵士を中心に描かれる物語を様々な角度から精神分析する授業で、男性心理学のようなものでした。私は、他の男の人とつながりをもつことが苦手で、避け続けてきました。そして、それを性的に、恋愛的に求めること、もつことによって代用しようとしてきたのです。そのようなことが示されても、それに目を向けることができず、心の奥底に隠し続けていました。
しかし、日本に帰国することをきっかけに、転機が訪れました。アメリカを去る前にどうしてももう一度会いたい人がいました。アメリカの高校時代の友達で、本当に仲が良かったのですが、あまりにも生活や興味、生い立ちまで違ったので、彼との友情に自信がなくなり大学に進学したのをきっかけに、ほとんど会っていませんでした。
勇気を出して会いに行ってみると、一瞬で長い月日の溝が埋まり、新しい友情が芽生えてきたのを感じました。高校時代には、自分が一歳年上だという下らないことで受け入れらなかったのですが、自分にとって彼は頼れるお兄さん存在だということに気づきました。
日本に帰国してから2回ほど彼に会いに行きました。男性が苦手な自分とは全く逆の彼は、多くの男友達に囲まれ、慕われていました。高校時代も帰国後に遊びに行っても、いつも自然な形で私をその輪に入れてくれました。男性同士が性的に恋愛的に結ばれるより、友情として結ばれる方がはるかによいものであると教えられているようで、それを否定できなくなりました。
彼はクリスチャンでしたが、彼自身もいろいろ問題を抱えていて、私の問題について寛大でした。しかし、聖書の話になると古傷が痛み、平行線の討論が続きました。そしてその傷を覆うように東洋思想やニューエイジの考えを私は捨てきれませんでした。あるとき、討論の途中で、彼のほうからやめようと言いました。彼は「討論では決して真実を知ることができない」と言うのです。
その言葉に感動したからでしょうか。次の日私は彼に、
「何年かかるか分からないけど、自分のプライドやいろんな思想を捨てて、イエス様を受け入れる準備をする」
と宣言しました。それから間もなく今までイエス様について聞かされていても受け入れられなかった私に、突然ダムの決壊のように心の奥底まで神の愛が流れ込みました。すると、お腹の底の今まで泣いたことがないような深いところから、大きな声と共に涙が溢れてくるのでした。
イエス・キリストは、東洋思想やニューエイジでは決して得ることのできなかった神様の愛への確信を私にくださりました。数多くの男性と性的交渉を持ってきた私ですが、どうしても怖くてHIVの抗体検査を受けることができませんでした。東洋思想、ニューエイジを通して精神を鍛え、検査を受ける勇気がでるのを待っていましたが、それは決して得ることが出来ませんでした。しかし、イエス様の十字架を知り悔い改めることで、堂々と検査を受けることができました。神様に全てを委ねその愛に飛び込めば、神様が私に最高の祝福を与えてくださると信じられたからでした。それは、検査の結果が陽性でも、全て神様が私の病気でさえ取り扱ってくださるという思いでした。神様は私の罪を赦し、陰性という結果をくださりました。
現在私は、同性愛者に神様の愛を伝えるために働いていきたいと願っています。