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【小学生】

ドブソン博士
  ドブソン博士の一問一答
 
Q120.

この近所の子ども達は大変行儀がわるく、大人にも失礼な言動をします。腹が立ちますが、どうしたらいいのか分かりません。近所の子どもを私がしつける権利はないので、何でもしたい放題になっています。どうしたらいいでしょう。

 
A.

近所の親どうしが話し合う必要があります。ただ、これは易しいことではありません。他の母親から自分の子どもに対する小言を聞くことほど、お母さんを怒らせることはないでしょう。ですからお宅の近所のように、子ども達の行状についてほとんどフィードバックがなされないのが典型的なのです。

大人同士にやりとりのないことを子どもは承知していて、それをいいことにしています。どんな地域でも、勇気を持って近所の人たちにこう言えるお母さんが必要です。
「娘が、家の外で何をしているのかを、ぜひ教えて下さい。人のお子さんに意地悪をしているなら、知りたいですし、大人の方々に失礼なことをしたらそれも言って下さい。告げ口とはちがいますし、私も言って下さることに感謝したいと思います。私もお宅のお子さんについて思うところがあったら、申し上げることがあるかもしれません。完全な子どもなんてどこにもいませんから、もし私どもが大人として率直に話し合えたら、きっと子どものためにもなると思うんです」

近くに住んでいる親同士がこういうふうになるまでは、子どもたちは好き勝手に振る舞い続けるでしょう。

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Q121.
夫と離婚しましたので、子どものしつけはすべて私がしなければなりません。家庭でのしつけについての先生のお話は、うちの場合も変わりませんか。  
A.

はい、同じです。家庭の事情がどうあろうとしつけの原則は変わりません。子どもにてこづっているとき助け舟を出してくれる人がいませんから、一人でするのはやはり少し難しくはなるでしょう。シングルマザーやシングルファーザーは、二人分の仕事をするわけで容易なことではありません。しかし、子どもは、困難だからと言って手加減はしません。どんな家庭でも、親は子どもの尊敬を得たければ、それを勝ちとる努力が必要です。

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Q123.

ごほうびと罰がすぐに与えられなければならないとすると、なぜ神の子である私たちに対しても神はそうされないのでしょうか。何年も悪いことをしているのに罰せられない人もいるし、クリスチャンとして生きた者への究極の報いは死後にしか与えられません。主は「即座の強化」についてご存じのはずですが。

 
A.

確かにそうですね。私たちが観察し理解しようとしているこの性質を造られたのは、神です。なぜ主は、ご自身が私たちに望む行動をすみやかに強化されないのでしょうか。私には分かりません。この事実は、聖書の中にも認められます。ソロモンはこう言いました。

「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちている。罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている」
(伝道者の書8章11、12節)

詩篇37篇も、悪い人が悪い行いにも関わらず栄えていると言います。作者は、悪者は栄えているように見えるが、正義は最後には勝つと言います。

「おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな」(詩篇37篇7節)

「ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう」
(同上10-11節)

実現が早かろうと遅かろうと、聖書の警告と約束は何よりも信頼できます。主が最後の判決を下されるのです。

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Q125.

12歳の息子には、なんとかして責任のある行動とは何かを教えたいと思っています。どうしたらそれができるでしょうか。

 
A.

思春期前の子どもたちを持つ親御さんがすべき大切なことのひとつは、行動には必ずそれに相応しい結果が伴うことを教えることです。何でも大目に見てしまうと、子どもは、行動と結果という二つを、結びつけて考えることができなくなります。
3歳児が母親に失礼なことばを口走っても、母はどうしたらいいのか分からずに目をぱちくりしている。

1年生が先生に逆らっているのに、先生はまだ幼いからと言って見過ごす。

10歳の子が万引きしてつかまりますが、親があやまるだけで簡単に放免される。

15歳の娘が、車のキーを盗み出し無免許運転で捕まっても、父親が罰金を払ってしまう。

18歳の息子が無謀運転をして電信柱にぶつけても、親が修理代を出してあげる。

子どもが何歳であっても、親は愛情のゆえに、無責任な行動とその結果との間にある密接な関係を断ち切ってしまい、貴重な教訓を子ども達が学ぶチャンスを奪うのです。

このように、若者が大人になった時に、人生は甘くないこと、自分がなすすべての行いは将来に直接影響すること、無責任な行動はいつかは悲しみと痛みを生むことなどを本当に知ることがないのです。

そんな人は、初めて就職したその週に、三度も遅刻します。あとになって厳しい言葉で首を宣告されて、逆恨みをします。嬉しくない結果からママとパパが救い出してくれなかったのは、これが生まれて初めてです。(残念なことに、多くのアメリカ人の親は、子どもが家を出ているにもかかわらず、成人した子どもをまだ助けてやろうとします)

結果はどうなるでしょう。過保護にすれば人にいつまでも依存し、永遠の思春期に留まるような精神的半人前を生み出してしまうのです。

では、どうしたら行動には必ず結果が伴うことを教えられるでしょう。

それには、子どもが無責任な行動をしたら、その結果としての苦痛や不便をあえて忍ばせることです。寝坊してバスに乗り遅れた子は、車で送ってやらずに遅れて行かせる。お昼ご飯を買いなさいと言って渡したお金を、なくしてしまった子には、一回お昼を抜かせる。(もちろん、年端もいかない子ども達に、常識をはずれて厳しくし過ぎてはいけませんが)

とにかく、一番いいのは、子ども達に年相応の責任を持たせ、それを果さなかった時の苦い実を時に味わわせることです。そうすることによって、実生活と同じように行いがその結果と結びついていることを子どもは体で覚えます。

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Q127.

子どもに言うことをきかせるのに、ごほうびを使うというのにはどうもしっくりときません。なんだか、賄賂を使っているみたいです。このことについての先生のお考えを聞かせて下さい。

 
A.

多くの親がそのように感じられるようです。私は、回答として、「主義として反対だというのであれば、お使いにならないように」と申し上げます。しかし、もっとも有効な教育方法のひとつが、用語の誤解のために使われないとしたら、残念なことだと私は思うのです。

私たちの社会全体が、報酬というシステムの上に成り立っています。ところが、これがもっとも必要とされている場所、つまり家庭において私たちはこれを生かそうとしないのです。

大人の社会では、毎日仕事に行き、その結果給料をもらえます。毎朝起きて、任務を果していることが、そのようにして報われるのです。勇敢な兵隊にはメダルが贈られ、業績あげたビジネスマンには賞品が、退職した人には時計が贈られます。報いがあるから、努力する甲斐もあるのです。

資本主義が圧倒的な勝利を収めている第一の理由は、勤労と個人的努力が目に見える形で報われることです。社会主義の大きな弱点は、動機が欠けていることです。何も手に入るものがないなら、なぜ努力しなければならないのでしょう。社会主義は、動機を失わせます。ところが、ある親は、子どもに向かうのにそのような方法しかないと感じています。

「やるべきことを、やりなさい」という風に、責任を果させようとします。「やり終えたら満足感があるよ」と言うだけで、子どもが勉強をし、お手伝いをし、努力するようになることを期待しますところが、子どもは、動きません。

私が勧める「賄賂」以外のやり方を、ちょっと考えてみましょう。

5歳の息子さんに、もっと責任ある行動を教えるにはどうしますか。

一番よくあるのは、ガミガミ言い、不満を言い、懇願し、黄色い声をあげ、脅迫し、また罰を与えることです。ごほうびを与えることに反対のお母さんは、毎晩頭痛を抱えてベッドにつき、二度と子どもなんか生まないと誓っているかもしれません。賄賂に似たようなものを使うのはお嫌いですが、別の機会にお金をあげることはあるでしょう。自分で現金を稼ぐということを学ばないために、お子さんは貯金すること、賢く使うこと、また神にささげることも学びません。おもちゃもお母さんが買ってくれるのですから、ありがた味が少ないのです。

しかし、重要なのは、自己訓練を学ばず、自己訓練を注意深く強化することによって可能になる責任を学んでいないことです。

そういうわけで、思慮分別を持って報酬を使うなら、子育てに役立つと思います。ただし、効果のない子もいます。

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Q128.

いうことを聞かせるのにごほうびや罰を与えるのは、母親が子どもを操り人形のようにしているのとちがいますか。

 
A.

そうではありません。工場長が遅刻した人の給与を減額するのは、従業員を操るのとは違います。警察官がスピード違反のドライバーに罰金を課すのも、同じドライバーに保険会社が保険金を上乗せするのも同じことです。税務署が、期日までに税金を納めない人に滞納金を課すのも同様。

「操る」という言葉は、責任ある者に悪意や我がままな動機があることを示唆しており、子どものしつけには当てはまりません。

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Q129.

ごほうびを使うのを勧めないときがあるなら、それはどんな場合ですか。

 
A.

子どもが反抗しないことの報いとしてごほうびを与えるべきではありません。それは賄賂になります。つまり、権威の代用品なのです。

例えば、スーパーでお母さんが3歳の子に手を焼いているとします。
「こっちに来なさい」

「いやー!」

などと叫んで、反対に行ってしまうとします。お母さんは困って、娘が早く来たらキャンディーを差し出す。それは従順に報いたのではなく、むしろ子どもの反抗を強化したのです。

ごほうびのもう一つの間違った使い方は、家族の一員として当然のことをした時にあげることです。ごみを出したり、自分の布団をたたむことなどは、毎日するべき責任の一部です。でも、土曜日の半日を使って物置きの掃除をしたり庭の草取りをしたなら、その時間に見合ったお駄賃をあげるのがふさわしいでしょう。

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Q130.

子どもたちがあまり物に執着するのが心配です。ごほうびは、お金やおもちゃでなくてはなりませんか。

 
A.

もちろん、そんなことはありません。ある子どもたちにとっては、ほめ言葉が大きな喜びになります。珍しいスナックなども、子どもの注意を引きます。確かにマイナス面もありますが。

娘が3歳のとき、私はアルファベットの読み方も含めて読み書きの一歩手前のことを教え始めました。毎晩の夕食の後に計画して、チョコレート・キャンディーを主なごほうびにしました。(その頃は、今ほど砂糖の取り過ぎについて心配をしませんでした)

ある日の夕方、私が床に腰を降ろして新しいアルファベットを彼女に教えていると、近所でとてつもなく大きな音がしました。家中が外に飛び出して、何が起きたのかと目を凝らしました。静かな住宅地で、十代の子の車が横転していました。怪我は大したことはありませんでしたが、自動車は大破していました。

私たちは、煙りを出している車に水をかけ、警察に通報しました。興奮が醒めて初めて、娘が外に出て来なかったことに気付きました。

家に帰ると、キャンディーの大きな袋に娘がひじまでつっこんでいるではありませんか。チョコレートは200グラムぐらい口の中に入ってしまったのでしょう、その残りのほとんどは顎や鼻や額につけていました。私が入って来るのを見て、彼女はもう一つかみ、可愛いほっぺたの中に押し込んだのです。この経験から、私は物を、少なくとも食べられるものを、ごほうびに使うことには限界があることを学びました。

子どもが欲しがるものなら、ほめ言葉でもピザでも遊び時間でも、何でも使うことができます。

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「ドクタードブソンの一問一答」の翻訳については、ファミリー・フォーラム・ジャパンがティンデール社から許可を得ています。

Excerpted from COMPLETE MARRIAGE AND FAMILY HOME REFERENCE GUIDE ・ 2000
by James Dobson Inc. Used and translated with permission of Tyndale House Publishers.
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