pagetop Top Return
結婚 
ドブソン博士
  ドブソン博士の一問一答
Q.458

私の夫は、アルコール依存症患者であることを認めなければいけないと思います。私たちも、ボブとポーリーンと似たような体験をしています。主人は自分に問題があることを認めません。口にすることさえもしません。今、私が何をすべきなのかを教えて下さい。


A.

まず最初に、何をすべきでないか、何が助けにならないかをお話しましょう。

 なじり不平を言い、泣き叫び懇願し、ばつの悪い思いをさせ、またレッテル張りをしないことです。ご主人はコントロール不能な病気をかかえておられます。一人で克服することは無理です。
 ご主人の上司に嘘を言い、無責任の尻ぬぐいをしい、留置場から助け出し、本人が払うべき請求書を払ったりしないことです。アルコール依存症患者を救出しようとする人のことを、英語でイネーブラーと呼びます。善意でしていても実際には問題を長引かせ悪化させる人のことです。
 意見の別れるところではありますが、ほとんどの権威は、アルコール依存症を性格上の欠点とか道徳的な問題とはみていません。本人が「飲み過ぎてもかまわない」と思っていた初期の頃は、道徳的な問題でした。しかし、それ以降は本人は決して「家族を苦しめたい」とか、「泥酔したままでいたい」とか、「お金を浪費したい」と思うわけではないのです。アルコール依存症患者は、自分の意志で行動する能力をとっくに失っているのです。

 自己中心的な理由から、ご主人の問題を慢性化させないことです。家族が、無意識的な動機から治療に抵抗を示すことは珍しくありません。

例えば、いつも酔っぱらっている夫を持つ妻は、家の実権を握っています。お金をコントロールし、家庭内の決断をすべて下している独裁者です。依存症の夫が回復し始めると、彼女は自分の権力が失われているのを感じ、彼のリハビリをさぼるようになるかもしれません。あなたの家庭内での回復をないがしろにするような微妙な力関係にご注意下さい。

Qページへ戻る

Q.459

してはいけないことは分かりました。次は、どうしたら助けが得られるのかを教えて下さい。


A.

この問題を外部の援助なしに解決するのは、事実上不可能です。大げさでも何でもなく、家族全体が病気なのです。この病気に関連した、怒り、うつ症状、幻滅、失望、経済的な恐れ、否認、低い自尊心、その他様々な感情が渦巻いています。たましいが傷ついており、経験者の愛の配慮を必要としているのです。

もし依存症患者本人が一人回復したとしても家族が治療を受けていなければ、必ずと言っていいほどぶり返します。

家族への援助は、アラノンという団体が提供してくれます。それは、アルコール依存症患者の家族のためのサポート・プログラムです。ポーリーンは、家族をそして恐らく彼女の命を救ってくれたのは、アラノンだと言っています。彼女のことばです。

「一年間は行こうとしませんでしたが、行き詰まってアラノンに出席し、ついに必要な答えを得ることができるようになりました。最初の晩は忘れられません。

出席者は、私に同情するでもなくアドバイスするでもなく、ただ自分たちの体験と力と希望を分かち合ってくれました。私はそれにすがりつきました。一ヵ月もしないうちに、我が家に変化の兆しが見え始めました。アラノンは私を神に向けさせ、私が自分自身にではなく神に眼を向けるよう助けてくれました。それから、主人をどうしたらいいかを教えてくれたのです」

アラノンについてのボブのことばは、さらにドラマチックです。

「アルコール依存者の飲酒の喜びを邪魔したければ、その妻か夫をアラノンに連れて行くことです。ポーリーンは、三つの方法でそのアプローチを変えました。そして、私はそれに大変戸惑ったのです。

妻は、以前はお酒を流しに捨てていましたが、そのことや私の飲酒をやめさせる努力等もいっさい止めました。

月曜日になると、私は家内に頼んで職場に電話してもらい、風邪で休むと言わせていたのですが、アラノンに行き始めてからは、家内はただにっこりして「これからは、自分でおやりになって」と言うだけなのです。

家内は穏やかになり、私に振り回されなくなりました。以前は、友達と外で飲んで帰宅しては、また出かける口実を捜したものです。家内に言い掛かりをつけて、「よーし、それなら分かった、おれは出かけてくるから」と言えばよかったのです。

アラノンに行くようになってからは、家内は私を引き止めようとしないで、にっこり笑って「じゃ、さよなら、私はミーティングに行くから」と言うようになったのです。

Qページへ戻る

Q.460

家族のための助けを得ることのほかに、夫のためには具体的に何ができるでしょう。一体全体どうやったら、夫をAAやその他の治療プログラムに乗せることができるでしょう。夫の否認は強力で、頭が働いているのかどうかも分かりません。自分の命を守るための当然の決断さえ下せなかったのです。どうしたら、協力を得ることができるでしょう。


A.

おっしゃる通り、直面なさっている問題は一筋縄ではいきません。泣いて頼んでもご主人は動かないでしょうし、問題を認める前に彼は死んでしまうでしょう。実際、自分がアルコール依存症だということを認めようとしない何千人もの人々が毎年命を落としています。ですから、アラノンは、家族の人々に、愛をもって厳しく対決する方法を教えているのです。

この病気を許し治療を引き延ばしているサポートシステムを取り除く方法を学びます。依存者が助けを得る必要を認めるようにさせる、最後通牒を、いつどのように突き付けるかを教えられます。時には、依存症の犠牲者が否認し続けられなほど惨めさを感じるまで、別居するように勧めることもあります。簡単に言うと、アラノンは「厳しい愛」のアラノン版を、それを必要としている家族の方々に教えているのです。

私はボブに、彼がAAに出席するよう強制されたのかどうかを聞いてみました。これが、その答えです。

「こういう言い方ができるでしょう。AAに行くのは、その晩ほかにすることがないからではありません。誰でも最初は、仕方なく行かされます。

『月曜日はフットボールを見た。火曜日は映画に行った。水曜日はどうしようか。AAに行くのはどうかな?』

そういうふうには行きません。強いられて、言わば自分の惨めさに強いられて行ったのです。家内は、私の益のために、あえて私を惨めなままに放っておいたのです。出席するようになったのは、厳しい愛のためでした」

簡単なように聞こえるかも知れませんが、ボブを立ち直らせた「愛に基づく対決」という方法は、デリケートな作戦でした。くり返し強調しなければならないのは、家族がそれを生兵法で使うべきではないということです。専門家の訓練と援助なしに行うと、この対決はまかりまちがうと、憎しみや悪意や罵りあいに終わり、ますます飲酒癖を頑固なものにしてしまいます。

Qページへ戻る

Q.461

博士が、80年代に法務省のポルノ対策委員会の委員を勤められたことを聞きました。ポルノ産業の現状と、またこれからどういう方向に行こうとしているのかを教えてください。


A.

ポルノ産業が何を生みだし、何を売ろうとしているかを知るのは非常に大切です。しかし、十分に伝えようとすると、余りにも生々しい描写になります。もしこのビジネスの低俗さとポルノ中毒者の現状を理解したら、更に規制に向けて働く動機づけを与えられるでしょう。

ポルノの本流は、男性向け雑誌の見開きページであると一般的には信じられています。実は、まさしくそれこそACLU(米市民的自由連盟)とセックス産業が私たちに信じさせようとしていることです。しかし、タイムス・スクウェアや米国の他の大都市のセックスショップに行って見るなら、そこには普通の男女間の性行動の描写はほとんど見られません。ほとんどが、暴力がらみのホモセクシュアル・レズビアンの場面、排泄物、手足切断、浣腸、オーラルセックス、アナルセックス、拷問の道具、そして獣姦などです。驚くべきことにこのような忌むべきものを飲み込む巨大なマーケットがあるのです。

80年代以来変化したのは、わいせつ物がインターネットに侵入したことです。法務省ポルノ対策委員会当時にあったすべての、そして更に低俗なものが今やパソコンと高解像度プリンターを持つ12歳の少年の手に入るのです。多くは、オランダなどわいせつ物に対する規制のない国から入ってきます。コンピューターを使って勉強をしているものと親たちが思いこんでいる子どもたちが、実は普通の大人が見たら仰天するようなものを見ているとしたら、心が痛みます。ポルノ産業は、技術の進歩とともに法の目をかいくぐりお茶の間にまで侵入してきたのです。

Qページへ戻る

Q.462

ポルノが家庭に及ぼす影響について、手短に教えていただけませんか?


A.

健全な子を育てるのが家庭の第一の役割であり、子どもの心をねじ曲げてしまうものは何であれ、父母から見れば唾棄すべきです。加えて、危険にさらされているのは、他でもない家庭の未来です。人は性的な生き物であり、男性と女性が引き合うことの中に、結婚、ひいては親となるためのすべての基本があるのです。ですから健全な男女関係の中に介入しようとするものには何でも、注意深くなければなりません。

 ポルノに中毒性と進行性がなく、幻想が現実を破壊することがなく、わいせつな印刷物やビデオに夢中になって倒錯に陥り、夫婦関係にひびが入ることはないと確信できない限り、これを軽々しく受け入れるべきではありません。社会には、法律や裁判所が定めた一線からはみ出したものから自らを守るおごそかな義務があります。これは性的抑圧ではありません。家庭維持のための必須条件です。

Qページへ戻る

Q.463

家族のことを考えたら、忙しすぎがよくないことは分かります。でも、私たちの教会は一週間にほとんど毎晩何かの活動をしています。夫も私もそのうち多くの働きのリーダーシップを取るように頼まれたり、期待されます。正直言って、牧師から何かを依頼されて断わると罪意識を覚えます。結果的に、家族の時間はなくなってしまいます。この矛盾をどうしたら解決できるでしょう?


A.

そのジレンマは私にも分かります。私ども夫婦も結婚して最初の10年間は同じ葛藤を経験しました。若い信者であった私は、当時教会に頼まれることは何でも引き受ける義務があると感じました。教会学校の校長、役員会、教会学校成人クラスの教師などを務め、その他何か特別の必要があるときは何でも引き受けていました。妻も、子ども聖歌隊の指導、婦人会の会長など教会活動に深くかかわっていました。私は博士過程の最終段階ににあり、仕事面での責任も膨大でした。息もつけない状態で、家にはパパと遊びたい盛りの女の子がいるのに、あるとき17日間も夜の会合が続いたことを思い出します。

それ自体重要な仕事であっても、それを引き受けるのには判断力と常識とを働かせるようにと主は私に望んでおられることが少しづつ分かってきました。一人の男性または女性ができることには当然ながら限界があります。キリスト者としての義務、仕事、リクリエーション、社会的責任そして意味ある家庭生活などを健康にバランスよく計画する必要があることが分かりました。
この問題を整理するのに役立った聖書のことばは以下の二つです。

第一はマタイの福音書14章13-14節にあります。
   「イエスはこのこと(バプテスマのヨハネの死)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた」

この時、イエスはいとこであり友であるバプテスマのヨハネの死をいたみ悲しんでいたに違いありません。「自分だけで寂しい所に」行く必要があったのです。それでも群衆は主の居場所を知り、いやしの御手を求めて来たのです。喪中であっても、イエスは人々をあわれみその必要を満たされました。このことから私の出した結論は、私たちも困難や不都合にめげず自分を犠牲にするべき時があるということです。

別の時には、何千もの人々がいやしを求めてイエスに押し寄せました。みことばを語られた後、主は弟子たちと舟に乗り込み、その場を去りました。マルコ4章36節によれば   「弟子たちは、群衆をあとに残し、舟にのっておられるままで、イエスをお連れした」

疑いなく、その日の群衆には癌、盲目、奇形、その他あらゆる不幸を背負った人々がいたはずです。主は彼らすべてをいやすために徹夜することもできたでしょうが、明らかに体力の限界に達して、休む必要を感じたのです。主と弟子たちが湖にこぎ出したとき、病人たちを岸辺に置き去りにしたのです。                  

似たような出来事がマタイ14章23節にも記されています。
   「群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた」

与えるべき時もあれば、なすべき大切な仕事はあっても一人になって祈り、日常の雑事から逃れるべき時があります。イエスのしたような休憩とリフレッシュの時を確保しない人は、やりたいこともうまく進まないようになります。例えて言うなら、庭のスプリンクラーの蛇口を多く作りすぎたようなものです。どの口からも十分な水は出ません。

もう一つの例をあげましょう。ぶどうを栽培する人は、枯れ枝を刈り込むだけではなく実のなる枝さえいくらか刈り取ることをご存じですか? 収穫量をいくらか犠牲にしても質の良いぶどうを得るためです。同じように、私たちも休みなく動き回ることをやめて働きの全体的な質を良くするようにすべきです。

  それはそれとして、気をつけるべきことがあります。バランスを維持すべきだといって、教会内での責任を避ける言い訳にするべきではありません。「ほとんどの奉仕がほんの数人の肩に負わされ、大部分の人は何もしようとしない」と牧師たちは嘆きます。これでは困ります。ひとつの極端から、反対の極端に飛躍しないように、常識を働かせましょう。

Qページへ戻る


「ドクタードブソンの一問一答」の翻訳については、ファミリー・フォーラム・ジャパンがティンデール社から許可を得ています。

Excerpted from COMPLETE MARRIAGE AND FAMILY HOME REFERENCE GUIDE ・ 2000
by James Dobson Inc. Used and translated with permission of Tyndale House Publishers.
International copyrights secured


FFJ 
ページTopへ

footer